常識と仮説

「自分の常識は他人にとっては非常識かもしれない」
と認めることももちろん大切だが、
「自分の常識は定常的なものではない」
ということを知るのもまた大切なことだと思う。


「常識」というやつは、一見して揺らぐことのない堅牢なものと思いがちだが、意外とふらふら移り変わってゆくもの。
その意味で「常識」というより「仮説」として考えた方が分かり良いかもしれない。
([参考]99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書))
正しそうに見える「仮説」でも、たった一つの判例が見つかるだけで簡単に覆ってしまう。
そのとき、その判例を是なるものと認め、自分の「仮説」を覆す事ができるか、という点が難しいところ。


「自分の常識」「相手の常識」と分けるだけでは、相手を尊重し受け入れるということが抜け落ちていて、結局「常識」vs「非常識」という敵対構造しか生まれないと思う。
「あの人の言うことは私の考え方と大きく違っているけど、まあそんな「仮説」もあり得るかな」くらいの気持ちでいた方が互いに楽なんじゃないかな。