『常識』を語るなら『世界』を示そう

starocker2006-06-18

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先日のエントリが思いのほか多数の方にブクマしてもらったみたいで、「このネタ知らないのは自分だけじゃなかった〜」という安堵にも似た気持ちを抱いたわけです。


一方で、MM/Memoのユーザさんが付けてるコメントが目に留まりました。

このコメントを見て感じた疑問が3つ。

  1. 『こんなネタが数10個もブクマされてしまうという現実』の何を危惧しているのか?
  2. 『常識』しか書かれていないエントリを敢えてブクマすることの真意
  3. このエントリ内容が『常識』と判断した根拠は?

1と2に関してはまあとりあえず置いといて、一番興味深いのは3番の疑問。


goo辞書によると『常識』とは

じょうしき じやう― 0 【常識】


〔common sense〕
(1)ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力。
「―では考えられない奇行」「―に欠ける」
(2)「共通感覚」に同じ

ここで対象とするのは(1)の『常識』。
(1)の説明文において『人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力』は指摘の対象そのものなので自明。(今回はエントリ内容)
未知なのは『ある社会』という箇所。
ここが不明であるなら、それは『常識』の説明として成り立たない。
『常識』を語るなら、それが常識として成り立つ『世界』を相手に示す必要があるだろう。
コンテクストから判断可能であるなら、特に明文化する必要はないかもしれないけど、あのエントリに付けられたコメントからはその『世界』が判断できなかった。
それは世界なのか、日本なのか、特定の企業や大学なのか、それとも我が家なのか。


誰かの語る『常識』は、決して否定されるものではない。それは確かに『常識』なのだから。
ただし、語る先の相手がその『常識』の成立する『世界』の住民でないなら、少なくとも相手にとって『常識』としての効力は無いと考えた方が良い。