『よい文章』は誰でも書ける、だからブログは楽しい

どんな文章であれ「自分にしか書けない」という条件を満たすには書き手も読み手も「ああ、この文章はこの人にしか書けないな」と認識されなければなりません。

書き手が「これはオレのオリジナル!」と思っても読み手が「**さんの文章にインスパイアされていますね」と思ったらそれまでですし、読み手が「この文章は○○さんにしか書けない」と思っても書き手が「いや、オレのこの文章は誰かの真似だ、真似なんだぁ」と頭をかきむしっていれば、やはりオリジナリティのある文章とは言えないと思います。

なるほど確かにそうかもしれないと思いました。
ただ一方で、私は『自分にしか書けないこと』で大事なのはorigin(起源)であって、originality(独創性)はおまけだとも思ってます。


以下、大元のLife is beautiful: 「なぜブログを書くの?」、「もちろん、あなたのためです」より、引用の引用です。

よい文章とは、

  1. 自分にしか書けないことを
  2. だれにでもわかるように書く

ということを実現している文章。

『自分にしか書けないこと』とは何だろう。
いろいろ考えられるけど、結局は『自分だけが知っていること』であり、
その代表が『自分が直接経験したこと』に起因することではないでしょうか。
例えば、
『私は昨日、雨の中、本屋に行き、本を5冊買ってきた。』
このことは、世界で私しか知らない、私にしか書けないことの一つです。
ただし、同じ経験をした人は日本に5万と居るでしょうから、
『自分にしか書けないこと』とは、私が何を思って本屋に行き、何を考えて5冊の本を選択したか、という部分までを含みます。


そしてそれを『だれにでもわかるように書く』。
これは、「分かりやすく書く」という文章術の話になるので、細かい話は関連書籍に譲るとして、
このとき、世界で唯一無二な独創的な文章表現である必要はないんじゃないかなと。
もちろんそうである方がより『よい文章』であるかもしれないけど、『よい文章』は必ずしもオリジナルな文章表現でなくとも構わないと思います。
(少なくとも、引用先の文(Life is beautifulさん)からは「オリジナルな文体が『よい文章』だ」ということは読み取れませんでした。)


つまり、ただ私が体験して感じたことを分かりやすい文章で書いたものであっても『よい文章』にすることができる。


選ばれた表現者のみにしか『よい文章』が書けないのであれば、選ばれなかった者にとってブログはなんとつまらぬものでしょう。
たわいない日々を綴るブログであっても、『よい文章』を書くことができるし、時にはそれに誰かが応えてくれる。
だからこそ誰でもブログを楽しめるし、私もブログを楽しんでいるのだと思います。