数学する遺伝子 - あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ

数学する遺伝子―あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ

数学する遺伝子―あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ

言葉を使いこなせるのなら、数学もできるはず! 大胆な仮説をもとに、数学能力の起源の秘密を解き明かしていく科学ノンフィクション


数学の才能は、実はみんな生まれつき持っている。なぜならば、数学をすることを可能にしている脳の特性は、言葉の使用、つまり、人に話しかけたり、人の話を理解したりすることを可能にしている特性と同じものだからだ。言葉を操れるのなら、数学だってできるはず。わたしたちは「言語の遺伝子」と同様に「数学の遺伝子」も持っているのだ。 しかし、そうだとしたら、どうして数学が苦手という人がいるのか。数学者は普通の人とどこかが違うのか。また、数学を得意にすることができるのか。スタンフォード大学の数学者が、これらの謎を解きあかし、数学に対する新たな見方を提示する。
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/113348.html

「数学が苦手」な人は少なくない。声高に得意だと言える人の方が珍しいんじゃないかな。
私も得意と自負できるほどに数学の世界に詳しくない。(加えて言えば「物理」が苦手。)


それに対して著者は、実は誰でも数学の才能、すなわち「数学の遺伝子」を持っており、さらに数学をすることを可能にしている脳の特性は、言葉の使用を可能にしている特性とまったく同じものであると説明する。
ではなぜ数学が苦手な人がこんなにも多いのだろうか?言語の使用は子供でも容易に行えるのに、その同じ特性を数学に対して利用できる人が少ないのはなぜなのだろうか?
本書ではそういった疑問に対して、そもそも数学や数とは何なのかという議論、数学者の考える数学の世界の話、そして言語進化の話を経て言語能力と数学能力との関連性へと繋がっていく。


数学をするために必要な能力は何だろうか。それには数の感覚や計数能力、因果の感覚などが挙げられるが、特に注目すべきは抽象概念をあつかう能力だ。
例えば本書で取り上げられていた数学の問題として、ユークリッドが証明した(と言われている)「素数は無限に存在するか否か?」という問題が挙げられている。無限の素数を思考する、というのはまさに抽象概念に他ならない。加えて、本証明の簡潔さやエレガントさは、「数学の美」と呼ぶにふさわしい。
数学者たちは数学をするときに言語で思考しないで、抽象的な概念やイメージで数学世界を捉える。言語が必要になるのは、その思考プロセスの証明を詳しく述べるときだ。
数学をするためにはそれほど高い抽象化と集中力が必要であり、それを可能とするためには地道な反復訓練を要する。逆に言えば、我々は数学の基本能力(「数学の遺伝子」)を持っているわけだから、あとは十分な熱意で持って数学に取り組みさえすれば誰でもその世界に飛び込めるわけだ。

数学はマラソンと似ていなくもない。一九七〇年代までは、マラソン競技を走れるのは訓練を積んだ少数の選手だけだった。ノンストップで四二.一九五キロメートルを走るには、特別な才能が必要だと考えられていた。(中略)その後、ランニング・ブームがまずアメリカで、続いてほかの多くの国でもはじまった。そしてまもなく、何千人という一般の人々が世界各地でマラソンを走るようになった。そして世界レベルのエリート選手よりずっと時間はかかったが、それでも完走した。

結局のところ、マラソンを走るのに特別な才能はいらなかったのである。ほとんどの人は、走りたいという十分な熱意さえあれば、マラソンを走れる。才能が問題になるのは、だれよりもうまく走りたいと思うときだけだ。


では人間はいかにして数学する能力を獲得したのだろうか?その鍵となるのが抽象概念をあつかう能力(本書では「オフライン能力」とも呼ぶ)であり、それこそが我々に言語をもたらしたのだと著者は言う。数学も言語もこのオフライン能力を基とする脳の特性なのだそうだ。このあたりの議論そのものが抽象的で難しいのだけど、詳細はぜひ本書を参照して頂きたい。


本筋とは直接の関係はないけど、2章と3章で説明される「3」についての話はなかなか興味深かった。例えば我々は、3以下の集合についてはほとんど瞬時に、カウンティングすることなくその数を認識でき、実際にカウンティングして答えを求めるのは数が4以上の場合なのだそう。実験によると、赤ちゃんは「1+1」の答えは「1」でも「3」でもなく「2」であることを知っているらしい。
また数の表記法を見ると、最初の3つの数が同じシンボルを増やすことで表される場合が多い。ローマ数字では「I」「II」「III」、マヤ数字では「・」「・・」「・・・」、そしてアラビア数字の「1」「2」「3」も起源をたどると横棒の数で表記されていたそうだ。本書では触れられていないけど漢数字も「一」「二」「三」と同じ傾向が見て取れる。
この「3」という数字には何か深い所以があったりするのかな。非常に気になるお話だけど、答えは本書には載っていない。答えが知りたければ数学をする必要があるのかもしれない。